琴奨菊は「探求心」を極めた大関だった

琴奨菊は「探求心」を極めた大関だったアイキャッチ 大相撲観戦日記

相撲と紅茶とゲームが大好きな
ペパーミントあいです。

2020(令和2)年11月場所中日に
元大関 琴奨菊の引退会見が行われました。

琴奨菊の引退会見を見て、
琴奨菊は「探求心」を極めた大関であると
思いました。

同時に「相撲は自己実現の手段の一つ」
であると感じました。

これからの相撲部屋には
「力士が自己実現できる場所」
提供してほしいと願っています。

会見で印象に残った「探求心」

2020(令和2)年11月場所
中日の11月15日に
元大関 琴奨菊の引退が
正式に発表されました。

正式に引退会見が行われました。

この引退会見の中で
私が印象に残ったのは、

「探求」

という言葉でした。

琴奨菊は

「長く相撲を取るためではなく、
自分の相撲を探求するために
現役を続けてきた」

という内容のことを話していました。

引退するのは

「自分の相撲を探求出来る体で
なくなったから引退する」

とのこと。

思えば十両に落ちても
現役を続けることを決めたときも

「まだ強くなることが出来る」
=「自分の相撲を探求することが出来る」

と思って続けたと話していました。

琴奨菊は本当にすごく
相撲が大好きなんだなと思いました。

同時に、
新しい相撲道の形
見たような気がします。

相撲の探求≒強さの探求と感じた

私が琴奨菊から
新しい相撲道を感じた理由は、
琴奨菊を見ていると

「相撲は自己実現の手段の一つ」

であると感じたからです。

自分の相撲を探求し続けるということは、
過去のどの名力士たちも
してきたことであると思います。

ただ過去歴史に名を残している
名力士たちのそれが
「強さを求める」「番付を上げる」
ということとイコールであるのに対し、

琴奨菊の言う「相撲の探求」は、
必ずしも強さとイコールではない

感じました。

琴奨菊も探求すること=強くなることと
いう意味で話しているとは思うのですが、

「大関を維持する」
「大関に戻る」
「幕内を維持する」

とイコールとは言いきれないと感じました。

琴奨菊の言う「相撲の強さ」というのは、
単純に番付と絡めたものとは
違うような気がしたのです。

そうでなければ大関から陥落、
あるいは大関復帰が叶わなかった瞬間、
幕内からの陥落が節目になったと思います。

琴奨菊の言う「強くなること」が
どういうことなのかは、
琴奨菊に聞いてみないと分かりません。

ただ琴奨菊は哲学的な言い回しの
多い人なので、私にはそれが
「人としての強さ」とか、
「徳を磨くこと」と近いことなのかと
想像しました。

勝手な想像なんですけど。

もっとも琴奨菊のような
相撲の探求の仕方をした力士は
過去にもいるのかもしれません。

ただ私の知識が乏しいから
知らないだけという可能性も
大いにあります。

相撲の自己実現とは何か?

私はさきほど、

「琴奨菊を見ていると
相撲は自己実現の手段の一つと感じる」

と書きました。

自己実現を

「才能を開花して輝くことで人々を喜ばせ、
その結果として報酬を得ること」

という意味であると考えれば、
何でも自己実現の手段の一つと言えます。

相撲とて例外ではありません。

「結果が全て」は自己実現なのか?

でも

「相撲は結果が全て」
「勝ちさえすればいい」

という考え方は、
必ずしも自己実現とは言い難いと感じます。

才能は開花しているかもしれないけど、
「輝いている」「人々を喜ばせる」
という条件を満たしていませんから。

ただ強さだけを求めると、
自己実現が疎かになると感じます。

「伝統が全て」は自己実現なのか?

一方で相撲の世界では
「伝統が全て」という考え方も
あると思います。

伝統によって守られてきた
世界でもあるので、それも当然です。

でも伝統とは
「良いものだから後世にも伝えよう」
としてきた結果、

何十年も何百年も続くもののことであって、
「守ることが目的」のものではないのでは?
とも思います。

北の富士さんや舞の海さんはよく

「横綱や大関が弱い姿を晒すなんて
相撲の伝統を壊す行為だ!」
というニュアンスのことを言います。

あるいは根性論を
「相撲の伝統」であるかのように
言うこともあります。

頷ける部分もあります。

でもどこかで腑に落ちないと感じるのは、
人よりも「相撲」「伝統」が上に
なってしまっていること

モヤモヤするからだと思うのです。

ちょっと語弊のある言い方ですが、
相撲は生きていくための手段、
あるいは娯楽の一つに過ぎないのに、
なぜ相撲のために人として大切な体を
破壊しなければならないのか?
と思うのです。

人のためにあるはずの伝統のために
人が犠牲にならなければならないのか?
と思うのです。

もちろん相撲で自己実現するということは
相撲の根幹、伝統を無視して
することは出来ません。

相撲の根幹、伝統を破壊するような
真似をして結果を残したところで、
それは「相撲で自己実現した」とは
言えません。

でも「伝統」のために
一人の力士の自己実現の機会を奪うことは
本当の伝統と言えるのか?
とも思います。

伝統もまた、
自己実現の手段の一つであると
私は思うのです。

無理して守らなければ
無くなってしまうものなら、
それは「伝統」とは
言えないのではと思うのです。

伝統は「良いものだから後世に伝える」
ものなのですから。

「伝統」はそれによって人を輝かせ、
喜ばせるものでなければならない

思うのです。

琴奨菊の晩年の相撲人生

琴奨菊の力士人生の晩年には
様々な意見があると思います。

「最後は結局は惨敗だった」
と言う人もいます。

でも私は、
最後まで自身の相撲を探求し続けた結果
であるので輝いていたと思います!

相撲としては輝いていなかった
かもしれないけど、
人としては輝いていました。

それは人として凄く
大事なことだと思います。

「力士は人である以前に力士だ」
という考え方もあるかもしれません。

でも私は
「力士である以前に人だ」
と思います。

他のどんなスポーツでも
選手である以前に人だし、
他のどんな職業でもそうです。

力士もスポーツ選手も芸能人も
その他のどんな職業も、
「人」に何かを提供する仕事には
違いありません。

人に何かを提供するなら、
人であることを無視しては
ダメだと思います。

少なくとも私は、
最後の最後まで自身の相撲の探求に
徹した琴奨菊は、

相撲道を貫き、
相撲で自己実現を果たした
立派な人であり、
力士であったと思います。

佐渡ヶ嶽部屋は人を大事にする部屋

一方で琴奨菊が最後まで
自身の相撲の探求に徹することが
出来たのには、

師匠である現佐渡ヶ嶽親方(元琴ノ若)の
影響が大きい
と思います。

現佐渡ヶ嶽親方は、
佐渡ヶ嶽部屋を継ぐために
先代佐渡ヶ嶽親方(元琴櫻)の
定年と同時に引退しました。

本当はまだ相撲が取りたかったと聞きます。

自分は未練を残して引退したから、
弟子の琴奨菊には納得いくまで
現役を続けてほしいと思っていたそうです。

またNHKで放送された
琴奨菊の相撲人生ハイライトでは、

先代師匠が
「中途半端にしないで
徹底しないとダメだよ」

と、弟子たちに激を飛ばしている
場面もありました。

自身の相撲の探求を徹底した琴奨菊は
先代師匠の教えを守ったと
言えるのではないでしょうか?

そして現師匠もまた、
琴奨菊が最後まで自分の相撲を
探求することを見守ることで、
「徹底しろ」という
先代の教えを守った
と言えます。

少なくとも北の富士さんが師匠だったら、
琴奨菊は最後の最後まで自身の相撲を
探求し続けることは出来なかったはずです。

佐渡ヶ嶽部屋は伝統ある部屋で、
厳しい教えもたくさんあると思いますが、
人を大事にする部屋であると、
現師匠を見ていると思います。

昔からそうだったのか、
たまたま今の師匠がいい人なのかは
分かりません。

ただ「人を大事にする」ことは
いつまでも伝統として守ってほしいと
強く思います。

あくまでも私の考えですが、
各相撲部屋には

「伝統のために力士を量産する部屋」

ではなく、

「力士が相撲で自己実現出来る部屋」

であってほしいです。

以上、
ペパーミントあいがお届けいたしました。